能の謡いや言葉というのは一応の節が決まっている。最初に習う時はとにかく声を出して、素に詠うことが大事なので、先生のやっている通りにやる。だんだん慣れてくると、伝統芸能特有の「先生の芸を盗み」ながら自分の詠い方を見つけていく。そこで気づくのが、この節、実は決まっているようで決まっていないということである。一応あるにはあるが、それを意識しながら、その「あたり」をうろうろするという感じで詠うらしい。なんだか曖昧である。 その「うろうろ」の仕方は何によってきまるかと言うと、心の中の動きらしい。これは私の想像かもしれないが、体の外の空気と体の中でまわっている「気」のようなものも影響しているかもしれない。西洋演劇の様に、心の動きが直接せりふの言い方に反映されるのではない。気持ちが反映するといってもおさえられてはいるし、古語で、節どおり詠ったり喋っているのでいくらかの距離ができる。言葉をよく聞いていると、決まった節を守りながら、ペースやリズムが時々変わる。「押す」と「抑える」によってダイナミックな抑揚が生まれてくる。
ある時能楽師の大村氏に、せりふを喋る時、その意味を意識して意図を伝えようとしているのかと聞いてみた。意味は一応わかっておいて、舞台上では練習した通りにやる。というこれ又曖昧な答えが返ってきた。この「曖昧さ」をもって意図を相手に伝えるのだが、別に相手がこれといった反応をするのでもない。その中で、淡々と劇は進行していく。観客は能を見ている時、意味は全て理解していなくても、ところどころの言葉や文章をつかみながら、ペースやリズムを感じて何が起こっているかを「想像」する。「考えて理解する」よりも「感じて想像する」演劇なのだ。そこで曖昧さが重要になってくる。いや、正確かつ曖昧さとでも言おうか。この二面性は「神」と「人間」の対峙に相当する。「神」に近づくためには正確な儀式が必要だが、一見その反対のように思える曖昧さとは「自然」である。観客が「感じて想像する」自由を最大限にする為には、どちらもが必須なように思える。